日記・コラム・つぶやき

掴んだモノは放せ

誰でも知っているのに、滅多にできないことがある。
それは、掴んだ手を放すということだ。放さなければ、その手は使い物にならないのに。

何かを理解したと思ったら、そのことを手放さなければならない。握っている間は、それは役に立たないからだ。把握し記述できてしまったら知識はその瞬間から邪魔な荷物でしかない。それを掌握しようとする限り、真理は、お前の手の中にはない。

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抽象度の調節

アスペルガー者の一部では、抽象度の調節が失調している。
多くの場合は、過度に抽象的になるが、時には、過度に具体的になる傾向がある場合もある。
過度に抽象的になる理由は、あらゆる場合に適応可能な記述であれば、例外を考慮する必要がなくなって経済的になるためだと推測される。しかし、当然ながら、過度に抽象的な定式化は、どんな場合にも役に立たない定式化になってしまうことがほとんどである。

視覚的に思考する傾向があるアスペルガー者に対する説明として、傘の喩えがある。
定式化の抽象度は傘の大きさに似ている。より抽象的であれば、大きな傘と同じように、より多くの対象を掩うことが出来る。あまりに小さな傘は、具体的すぎる理解と同じで、あまりにわずかのことしかその下に容れることができない。
だからといって、直径10mもある傘を使う人はいない。道を歩くことも出来ないからだ。

アスペルガー者の面接では、問題を具体性に帰着させる操作が多くなる。しかし、時には故意に過剰な抽象性を利用することもある。天を掩うほどの傘が仮にあれば、それには恐らく使い道もあることだろう。

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「きもち」はどうして「通じる」のか

普通の人間は、「きもちが通じる」という表現を疑わない
でも、アスペルガー者は、そこでつまづくことがある

たとえば、コンピューターゲームのキャラクターが笑っていたとして、
本当にそこに誰かいると思う人は、(たとえ2次元コンプレックスでも)
そうはいないだろう
それでも、「きもちが通じて」しまうことはありうるかもしれない
そして、それは異常なことではない
平均的な人にとっては。

コンピューターの黎明期に、ELIZAというプログラムがあった
精神分析医のものまねをするという、ごく短いプログラムである
プロンプトに随って、言葉を入力すると、プログラムはそれらしい
答えを返してくれる。
これが、のちに「人工無能」とよばれるもののはじまりである。

実際のところ、ELIZAと「きもちが通じた」感じがしてしまって
困惑した人はたくさんいたようだ
無理もないと思う、普通は人間はそのようにできている

実際には、意識が意識に働きかけるということはありえない
Ederman の表現だと「意識は因果関連を有しない」
ではなにが起きているのか?
相手の動きや言葉を、物理的に感覚して受け取っているだけ
ただ、それだけで、ひとは「きもち」を読み取ってしまう
相手の中に心を読み取ってしまう自動的な働きが作動するのだ

実は、「きもち」は読み取る側に存在している
だから、何もないところにも「きもち」は現れる

面倒くさいのは、「相手」も、あなたの方も
それぞれ自分自身にたいしても、「きもち」を読み取ってしまう
ということであり、しかも、それを相手のそれと同一視するからだ

同一視するという、そのやり方は大体うまくいくが
時に大きな間違いに結びつく
というのも、それが典型的な魔術的思考だからである。

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