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自由意思と計算可能性

自由意思というのは便宜的な概念に過ぎないということについて、簡単な考察を行う。

仮に、自由意思なるものが、決定論的過程に外部から影響しうるものであるように考えるなら、その考えは誤りであると同時に有害であると考えてよい。

実際には、世界が決定論的に作動しているという仮定と、あたかも何事かをひとが選択できるかのように出来事が経験されるということとの間には、論理的な矛盾は存在しない。

「未来は変えられる」というスローガンを考えてみよう。このような言明は、上記のような経験のあり方を反映しているといってもよいだろう。しかしながら、この言明を疑問型に変えるときに、このような言明の無意味さが露呈する。
「未来は変えられるか?」 このような問いは、未来そのものと、未来に関しての、”われわれの予測”を混同することによって成立している。未来は現前ではなく、それ自体は知り得ない。これは言葉の定義によって自明であるから、われわれが未来について知っていることは、全て予測であるということは正しいと考えてよいであろう。
してみれば、上記の問いは、「未来に関するわれわれの予測に反する未来は実現しうるか」という問いとして、問われなくてはならない。恐らく、少なからぬ場合にそれは可能であると思われるし、また別の場合にはそうでないだろう。

このことが成立するのは、われわれの予測が不完全であるということに依存している。では、完全な予測というものは成立しうるであろうか。しばしば、ここから誤りが持ち込まれる。世界が決定論的に作動しているという条件と、未来が完全に予測できるという条件は全く異なった条件である。少なくとも、世界が決定論的でない場合には、未来は完全には予測できないであろうが、逆は真ではない。決定論的な世界に関する予測も、計算量が充分大きければ容易に実行不可能になる。すなわち、世界が決定論的である場合にも、未来は完全には予測できない。

したがって、一般に自由意思として把握されている現象の本質は、不完全な予測に基づく決定ということに過ぎないと解釈することが許されている。これを観察者の側から記述すれば、偶発性による行動を必然として解釈するということと同値である。

決定論的過程における偶発性とは、問題設定のスコープを意味している。本質的に世界が決定論的に作動していると仮定しても、一般には、われわれの観測は統計的観測であることを免れない。すなわち、一定のスケール以下の内部構造を検出範囲の外とすることで、現実の観測は可能になる。このような、現在設定されている視野の外での現象に起因する統計的な揺らぎは、偶発性として把握される。マクロなスケールにおいて、この種の問題を論じるのに、量子的な水準での不確定性を持ち出す必要は必ずしもない。

スコープの設定による細部の無視は、計算量の節約のためにも欠くことが出来ない。しかしながら、偶発性を単に偶発性として取り扱うならば、このような節約は有効に活用できない。この偶発性を必然として代入することによって、初めて高次のスケールでの論理的な予測を実現することができるのである。

複雑系現象の典型としての社会的相互作用においては、個人の偶発的な選択は、自由意思による決定という仮想的な概念によって、必然に変換されて解釈される。選択を行った当の個人によってさえも、この変換は行われる。この仕組みによって、社会的相互作用は、個体の認知過程の偶発性から独立して、それ自身の論理を貫徹することができるようになる。換言すれば、自由意思・自発性・責任等々といった事柄は、社会的相互作用の水準で構築されるにすぎない。これらの事柄に関して、それを実体として取り扱おうとする、いかなる試みも、悪しき本質主義として批判されるに値するであろう。

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