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2010年3月

自由意思と計算可能性

自由意思というのは便宜的な概念に過ぎないということについて、簡単な考察を行う。

仮に、自由意思なるものが、決定論的過程に外部から影響しうるものであるように考えるなら、その考えは誤りであると同時に有害であると考えてよい。

実際には、世界が決定論的に作動しているという仮定と、あたかも何事かをひとが選択できるかのように出来事が経験されるということとの間には、論理的な矛盾は存在しない。

「未来は変えられる」というスローガンを考えてみよう。このような言明は、上記のような経験のあり方を反映しているといってもよいだろう。しかしながら、この言明を疑問型に変えるときに、このような言明の無意味さが露呈する。
「未来は変えられるか?」 このような問いは、未来そのものと、未来に関しての、”われわれの予測”を混同することによって成立している。未来は現前ではなく、それ自体は知り得ない。これは言葉の定義によって自明であるから、われわれが未来について知っていることは、全て予測であるということは正しいと考えてよいであろう。
してみれば、上記の問いは、「未来に関するわれわれの予測に反する未来は実現しうるか」という問いとして、問われなくてはならない。恐らく、少なからぬ場合にそれは可能であると思われるし、また別の場合にはそうでないだろう。

このことが成立するのは、われわれの予測が不完全であるということに依存している。では、完全な予測というものは成立しうるであろうか。しばしば、ここから誤りが持ち込まれる。世界が決定論的に作動しているという条件と、未来が完全に予測できるという条件は全く異なった条件である。少なくとも、世界が決定論的でない場合には、未来は完全には予測できないであろうが、逆は真ではない。決定論的な世界に関する予測も、計算量が充分大きければ容易に実行不可能になる。すなわち、世界が決定論的である場合にも、未来は完全には予測できない。

したがって、一般に自由意思として把握されている現象の本質は、不完全な予測に基づく決定ということに過ぎないと解釈することが許されている。これを観察者の側から記述すれば、偶発性による行動を必然として解釈するということと同値である。

決定論的過程における偶発性とは、問題設定のスコープを意味している。本質的に世界が決定論的に作動していると仮定しても、一般には、われわれの観測は統計的観測であることを免れない。すなわち、一定のスケール以下の内部構造を検出範囲の外とすることで、現実の観測は可能になる。このような、現在設定されている視野の外での現象に起因する統計的な揺らぎは、偶発性として把握される。マクロなスケールにおいて、この種の問題を論じるのに、量子的な水準での不確定性を持ち出す必要は必ずしもない。

スコープの設定による細部の無視は、計算量の節約のためにも欠くことが出来ない。しかしながら、偶発性を単に偶発性として取り扱うならば、このような節約は有効に活用できない。この偶発性を必然として代入することによって、初めて高次のスケールでの論理的な予測を実現することができるのである。

複雑系現象の典型としての社会的相互作用においては、個人の偶発的な選択は、自由意思による決定という仮想的な概念によって、必然に変換されて解釈される。選択を行った当の個人によってさえも、この変換は行われる。この仕組みによって、社会的相互作用は、個体の認知過程の偶発性から独立して、それ自身の論理を貫徹することができるようになる。換言すれば、自由意思・自発性・責任等々といった事柄は、社会的相互作用の水準で構築されるにすぎない。これらの事柄に関して、それを実体として取り扱おうとする、いかなる試みも、悪しき本質主義として批判されるに値するであろう。

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脱臼した想像力

理性の立場に立って、想像力を行使して、世界に対しての鳥瞰図を描こうとするときには、健常者もまた、自己の常識の平面を乗り越えて、他の次元に立って思索することができる。アスペルガー者のような、常識脱臼者においては、偶然、労せずして、この思索の高みに近い場所に最初から立たされているともいえる。
しかし、たまたま有利な地歩を占めているからといって、理性はアスペルガー者に特権を認めているわけではない、理性において想像力を能動的に用いて勝ち取ることなしには、何人たりとも決して特別な視野を与えられることはない。もしも、アスペルガー者に何かの特権があるとしたら、それは、そうするより他に生き延びる道がないという単純な理由において、理性を用いることを強制されているというだけのことに過ぎないだろう。

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二次元世界への訪問者

ふつうの人が2次元の世界で生きているときに、3次元の世界で生きている人がコミュニケーションを取ろうとしたら大変だろうと思う。

3次元人が動くたびに、2次元の世界の人には、伸びたり縮んだり、現れたり消えたりと見えるにちがいない。そうならないためには、むりやり自分の2次元投影像の知覚恒常性が保たれるように、所与の2次元平面に平行の動作以外しないように努力しなくてはならない。
健常者の世界は、健常者の常識の平面に制約されているが、そこから外れてしまうということ自体が、一つの自由度として把握できる。あたかも、骨折や脱臼によって、あってはならない自由度が関節に加わるのと同様である。

実際自由度というのは、厄介なものである。もしも、あなたの体が蛸のように柔軟であったら、ふつう人のように服を着て二足歩行するのは困難だろう。もしも、大変器用にそれをこなしたとしても、非常に疲れるであろうことは間違いない。
しかし、常習的な関節脱臼が、縄抜けには役立つように、制約から自由であることも役に立つ場合はある。

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