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2009年11月

想像力の働き

自生的なものとしての空想的な想像力と、
指向するものとしての構成的な想像力の区別

自生的なものとしての想像力は、
断片化され混合された引用の集積であり、
それを支配する原理は、睡眠時の夢を支配する原理に似ている。
部分的な類似や象徴的な連想にもとづいた、
そしてなによりも偶発性に支配された結合があり、
圧縮や冗長化、誇張や縮小、要素の置換、同一視や分離が見られる。

それらは、一見自由で多様に見えるが、それは意外性からくる幻惑でしかない
その要素と運動は、思いの外、単純で貧しい。
たとえば、ホラー小説はどれもホラー小説であり、
ヒロイックファンタジーはどれもそれでしかないということをみれば明らかだ。

しかし、その貧しさを笑うべきではない。
その単純な貧しさは、それを享受することを決して妨げない。

それに対して、構成的な想像力は、空想的な想像力の使う道具立てを
そのまま、問題解決の武器として活用する。

われわれの世界認識は、決して、ただ単に鏡のように世界を映すものではない
認知心理学的な立場からは、世界は主体の活動によってはじめて、
客体に関する、主体の内的な表象として構成される。

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アスペルガー者の主観的世界の発展について

   1. 未分化状態:自己があって他者がない世界
   (まだ、外界の規則性に十分反応できない、言語表象もない、
    純粋な感覚運動段階の世界、徐々に感覚運動図式が分化していく)

   2. 同一性保持状態:外界の規則性に捕らわれた世界
   (物としての外界を対象として分節化・符号化でき、ことばが芽生える
    しかし、その符号に機械的に縛られている、物と他者の認識が同じ次元にある)

   3. 自己中心状態:他者に気がついたが、他者から見た自己が見えない世界
   (物としての他者から、独立した行動の主体としての他者の把握へ
    最終的には、他者に関する心的モデルの形成)

   4. 過剰適応状態:他者があって自己がない世界
   (他者モデルへの同一化がみられる、このようにするべきということに
    囚われていて、そのことから距離がとれない、
    他者の秩序に自分を力ずくで随わせようとすることで疲れ切ってしまう
    したがって、客観的には現実の具体的な他者と関われていないという逆説)

   5. 関係過敏状態:他者から見た自己に捕らわれた世界
   (それなりに秩序に随うという、自己制御の課題は解決したが、
    こんどは自分が勝手に想像した他者の視線に囚われている
    自分で「心の世界」と思っているものを他者の中に見てしまう、
    ここではじめて真に他者とかかわるともいえる。)

   6. 社会適応状態:社会との関係を自分の意志で安定させられるようになる
   (個別の他者の心的モデルを形成することができる
    内面化された他者を参照しつつ、モデルとの内的な距離がとれている
    生活を楽しめるようになる
    しかし、自分を守ることに自足していて、振り返りができない
    どこまでも、「何かのため」という目的-手段の意識から抜け出せない )

   7. 向定位状態:世界の中での自己を定位しようとする
   (社会の中での位置に疑いを抱いたり、不満を持ったり、あきらめたりする
    そのような、自分探しが見られる、
    しかし、それを通じて、他者や社会に対する洞察が深まる
    また、本当の意味での仲間を作れるようになる)

   8. 社会没入状態:自己に固執することをを離れたありかた
   (仕事や役割に意味があると感じる。それに没入して、自分のことを忘れる
    自分のため、他人のため、というような区別を忘れて、自由に働く
    もはや損得などに縛られることはない
    目的と手段というような対立さえも、ここでは意味を失う)

   9. 向世界状態:自己と世界の関係を基本的に解決できた上で世界に向き合う
   (仕事や役割を相対化しながら、そのうえで引き受けることができる。
    世界に向かい、世界とともに、新たな世界へ志向する
    世界と、世界のあり得べき秩序と、自己がひとつであって分かれていない
    世界とひとつという意味で、未分化だった世界に近いが、それとは異なっている
    俗に言えば、大人の世界だが、但し、そこには裏も表もない)

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想像力について

まったく想像力でいっぱいなのだ。
狂人と、詩人と、恋をしている者は。
(シェイクスピア 『真夏の夜の夢』)

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真実の頑健性

 われわれと世界の関係で、もっとも興味深いことは、ある事柄が真実であれば、それは無数の方法で検算しうるという経験的な事実である。これは、逆に用いると、少なくとも複数の方法で証明できないような事柄は、真実と呼ぶに値しないということでもある。
 このことは、おそらく、より深遠な事柄から派生している。計算機の喩えでいえば、コンパイラーがそれ自身をコンパイルするのと、ちょうど逆の仕方で、われわれは、われわれ自身を逆コンパイルして、ソースコードらしきものの断片から、プログラムの核心を取り出し、”それ”をわれわれは論理性とか数学と呼んでいるということなのかもしれない。もっとも、それは一度生まれてしまえば、おのれの出自のことなどおかまいなく自律的に進んでいくわけなのだが。
 ピアジェの仕事の本質的に重要な点は、進化の過程が、論理性あるいは数学的構造と呼ばれるものに、どのようにして辿り着くことができたのかを説明したという点にある。ピアジェの言うところの、「回り道」と「もどり道」こそは、ある事柄が真実であれば、それを無数のやり方で検算できることの発生論的な説明になっている。

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語りうることについて

「この本は、哲学の問題を取り扱う。そして―私の考えでは―われわれの言語の論理が誤解されているとき、そうした(哲学的)問題が問われる、ということを示 す。この本全体の意味は、次のように言ってよいだろう。およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない、 と。」
(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

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