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2009年10月

よくてわるいこと(その4)-信じるということ-

 「よくてわるいこと」を取り扱うための、最後の方法は信じることである。我々は、有限の制約の中で生きているので、すべてを疑うことができない。望んでも、望まなくても、現実的な活動においては、我々は何事かを信じるよりほかはない。疑いつつも、とりあえず信じ、信じたことの責任を自分自身に引き受けることなしには、いかなる現実的な活動も行い得ない。一歩道を歩くだけでも、目の前の路が、一見そう見えるとおり堅い地盤であると信じなければ、1mmごとに這い回ることになるだろう。
 根拠もなく、よいとされることを「よい」と信じ、わるいとされることを「わるい」と信じるのは、見かけほどわるいことではない。「よいのかわるいのかさっぱり知らないが、あの人がよいといったから、とりあえず信じよう」というのは、非合理的であると同時に、合理的なやり方でもある。
 もっとも、この「信じるということ」自体が、「よくてわるいこと」の典型的な一例なので、循環論法に陥ってはしまうのだが。

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念仏の信心の事

念仏はまことに浄土に生るる因にてやはんべるらん、また、地獄に堕つる業にてやはんべるらん、惣じてもって存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。その故は、自余の行も励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄に堕ちて候はばこそ、「すかされたてまつりて」といふ後悔も候はめ。いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば、親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候歟。詮ずるところ、愚身が信心におきては是の如し。この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また棄てんとも、面々の御計なり
(親鸞『歎異鈔』)

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よくてわるいこと(その3)-弁証法-

 もう一つの方法は、「よくてわるいこと」を全体として取り扱える視点を導入することである。ひとつの事柄の中に、「よい」と「わるい」があって矛盾しているときに、その対立を超える原理を導くことができれば問題は解決する。
 はなしは、どちら側から始まってもいいが、よいと思ってやっていたことが、結果的にわるいと評価せざるを得ない面を同時に持っていることが明らかになることがある。よいことがわるくなったなら、話は単純だけれども、よいと評価すべき側面も依然として保たれているとする。
 アスペルガー者は、基本的には視点の移動が苦手なので、訓練しないと矛盾をはらんだ状態の全体像を見通すことができにくい。典型的には、一方の側面に注目すると、他方の側面を容易に無視してしまう。これは、実践的には、結果として成功する可能性のある方略だが、運次第ともいえる。
 そういうときに、例えば、ヘーゲルに由来する弁証法的な図式を仮に道具として利用することが役立つ場合があるだろう。本来、弁証法は具体的な現実の中で意味を持つものなので、図式的な定式化は意味をなさないのだが、チェスの手を定石を使って検討するように、導きの糸として利用することには意味がある。
 例えば、「正・反・合」という図式がある、肯定的に規定されるあるもの(正)から、それ自身を否定するもの(反)が生まれ、否定の否定としての、すなわち止揚された存在としてのそれ(合)が生まれるというような形式である。この止揚という形式においては、否定の否定(合)の内に、肯定的な契機(正)と、否定的な契機(反)が、ともに廃棄されると同時に、ともに保存される。一般に、対象としての世界そのものが、このような形式を内在させているというのは形而上学な主張にすぎないが、少なくとも人間の世界認識の形式がこのように発展するということは、経験的な観察に一致する。そして、それは個人においても社会集団においても成立する。

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人格について

人格とは、高いものと低いものが一つになったものである。
人格には無限なものとまったく有限なもの、一定のはっきりとしたけじめと、けじめのまったくなさとが統一されている。人格の高さというのは、この矛盾を持ちこたえることである
(ヘーゲル『法の哲学』)

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よくてわるいこと(その2)-定言命法-

 この問題を解決するための、一つの方法は、どのようなときもそうすべきであるような、「よいこと」以外はしないというやり方である。そんなばかな、と思われるかもしれないが、カントの考えはそれに近いように思われる。

Immanuel Kant
汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従ってのみ行為せよ。

 「従ってのみ行為せよ」というからには、「よくはなくて、わるくもないこと」は排除される。「よくて、わるいこと」も、それが普遍的法則であれと意欲できないような規則に基づくなら、排除できる。これも大変いい方法だ、問題といえば、当のその行為の根拠となる規則を自分で発見するか組み立てるかし、さらにそれが普遍的法則となったときの世界について想像するという、相当に高度な知的作業を必要とすることだけ(!)かもしれない。

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自由について

みずから不可能であると知っている目標へ向かうものだけが真に自由である

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よくてわるいこと(その1)-比較衡量-

 よい面とわるい面を、天秤にかけるというのは、わかりやすい考え方ではある。しかし、よいことの尺度と、わるいことの尺度は、そもそも異質なので、単純に足し算・引き算ができるものでないことは自明である。従って、なにか他の指標を探すことになる。基本的には、目的への適合性が指標として採用されることが多い。
 これは、局所的な判断には、とても役立つ。というのも、局所的な判断では目標を明確に見通すことが容易だからだ。しかし、大局的判断では条件が異なる。
 一般的な考え方に、「最大多数の最大利益」というような形式がある。これは、今日の文化で支配的な考え方ではあるのだが、そのとき「利益」を何の指標で量るのかが問題になる。もちろん、その指標は、金銭であっても幸福感であってもかまわないわけだが、しかし、何で量ろうとも損得計算であることに変わりはない。
 圧縮して言えば、功利主義とは善悪を損得によって基礎づけるという大胆な考えである。これは英雄的に乱暴な議論であって、ある意味で尊敬に値する。
 アマルティア・センは、経済学の立場から、この英雄的な粗暴さに挑戦して、ケイパビリティ(capability)の平等という概念で毒を取り除こうとした。これは、簡単に(従って若干不正確に)いいかえると、自由の平等ということを意味している。つまり、自分の幸せが何であるかを自分で決めるための前提としての自由という利益は、他の利益を超越した利益であるので、これを指標とするならば、形式は同じでも、もはや単なる損得勘定ではないという気持ちなのだろうと推察する。これは、正直わるくないアイデアだ。
 もっとも、与えられた自由を何に使うのかという重い責任もまた、「最大多数」に分配されることになるわけだが。

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ゴルディオスの結び目

 アレクサンドロスがペルシア領であるリュディアの州都ゴルディオンを占領した時(紀元前333年)、町の中心にあるゼウス神殿に一台の古い戦車が祀られていた。その戦車は“ゴルディオスの結び目”と言われる複雑に絡み合った縄で結わえられており、「この結び目には解いたものがアジアの支配者になる」という伝説が伝えられていた。その伝説を耳にしたアレクサンドロスは腰の剣を振り上げ、一刀のもとに結び目を切断し、「運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と兵たちに宣言したという。
(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/ より)

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善悪について

 当たり前の人にとってそうであるように、アスペルガー者にとっても善悪の判断というのは容易ではない。
命令:「よいことをする、わるいことをしない」
 上記の命令は、3歳児でもわかる理屈にみえるかもしれないが、論理的にいえば、「わるいこと」は「よいこと」の否定ではない。したがって、形式論理的には「よくて、わるくないこと」「よくなくて、わるいこと」「よくて、わるいこと」「よくはなくて、わるくもないこと」の4種類のことがあると考えなくてはならない。
前2者については、命令に関して判断に迷うことはないだろう。また、よくもわるくもないことは、上記の命令の範囲外なので問題はない。では、「よくて、わるいこと」は、どうだろうか?

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七仏通誡偈

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教
# Sabba papassa akaranam
# kusalassa upasampada
# Sacitta pariyodapanam
# etam buddhanu sasanam

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10月15日の勉強会報告

10月15日の明神下臨床認知科学研究会について

*参加者10名でした、みなさんおつかれさまでした。
1)発達障害の治療とSSTについてのディスカッション
2)自己紹介
3)研究会の進め方について
  ・次回から、30分繰り下げて19時スタート
  ・全9章分の担当者を割り当てた
  ・一度に2章進む予定なので、次回は白澤さんと佐藤さん
  ・今後のスケジュール:
  11.19  12.17
   1.21   2.18  3.18  4.15
   5.20   6.17  7.15 (八月は休み?)

次回の予定:11月19日木曜19:00から、明神下診療所で
  ・報告:成人ADHDの支援について(米田)
  ・読書会:第一章・第二章
次々回の予定:12月17日
  ・報告担当は糸井岳史の予定

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ミンスキー@ジャーゴンファイル

サスマン(Gerald Jay Sussman) がまだ若いころPDP-6をハッキングしているとミンスキーがやってきた。
「何をしてるんだい?」とミンスキー。
「ランダム結線したニューラルネットに三目並べを教えているところです」とサスマンは応えた。
「何故、ランダム結線なんだ?」
「遊び方の先入観を持たせたくないんですよ」
ミンスキーは目を閉じた。
「何故目を閉じるんですか?」サスマンはミンスキー先生に訊いた。
「部屋が空になるようにさ」
  このとき、サスマンはハッとひらめいた。

(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/ より)

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アンパンマンのマーチ

作詞:やなせたかし

そうだ うれしいんだ いきる よろこび
たとえ むねの きずが いたんでも

なんの ために うまれて なにを して いきるのか
こたえられない なんて そんなのは いやだ!
いまを いきる ことで あつい こころ もえる
だから きみは いくんだ ほほえんで

そうだ うれしいんだ いきる よろこび
たとえ むねの きずが いたんでも
ああ アンパンマン やさしい きみは
いけ! みんなの ゆめ まもるため

なにが きみの しあわせ なにをして よろこぶ
わからないまま おわる そんなのは いやだ!
わすれないで ゆめを こぼさないで なみだ
だから きみは とぶんだ どこまでも

そうだ おそれないで みんなの ために
あいと ゆうき だけが ともだちさ
ああ アンパンマン やさしい きみは
いけ! みんなの ゆめ まもるため

ときは はやく すぎる ひかる ほしは きえる
だから きみは いくんだ ほほえんで

そうだ うれしいんだ いきる よろこび
たとえ どんな てきが あいてでも
ああ アンパンマン やさしい きみは
いけ! みんなの ゆめ まもるため

Sonic Dragolgo

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非風非幡

六祖、因風颺刹幡。
有二僧、對論。一云、幡動。一云、風動。
往復曾未契理。
祖云、不是風動、不是幡動、仁者心動。二僧悚然。

無門曰、不是風動、不是幡動、不是心動、甚處見祖師。
若向者裏見得親切、方知二僧買鐵得金。祖師忍俊不禁、
一場漏逗。

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「きもち」はどうして「通じる」のか

普通の人間は、「きもちが通じる」という表現を疑わない
でも、アスペルガー者は、そこでつまづくことがある

たとえば、コンピューターゲームのキャラクターが笑っていたとして、
本当にそこに誰かいると思う人は、(たとえ2次元コンプレックスでも)
そうはいないだろう
それでも、「きもちが通じて」しまうことはありうるかもしれない
そして、それは異常なことではない
平均的な人にとっては。

コンピューターの黎明期に、ELIZAというプログラムがあった
精神分析医のものまねをするという、ごく短いプログラムである
プロンプトに随って、言葉を入力すると、プログラムはそれらしい
答えを返してくれる。
これが、のちに「人工無能」とよばれるもののはじまりである。

実際のところ、ELIZAと「きもちが通じた」感じがしてしまって
困惑した人はたくさんいたようだ
無理もないと思う、普通は人間はそのようにできている

実際には、意識が意識に働きかけるということはありえない
Ederman の表現だと「意識は因果関連を有しない」
ではなにが起きているのか?
相手の動きや言葉を、物理的に感覚して受け取っているだけ
ただ、それだけで、ひとは「きもち」を読み取ってしまう
相手の中に心を読み取ってしまう自動的な働きが作動するのだ

実は、「きもち」は読み取る側に存在している
だから、何もないところにも「きもち」は現れる

面倒くさいのは、「相手」も、あなたの方も
それぞれ自分自身にたいしても、「きもち」を読み取ってしまう
ということであり、しかも、それを相手のそれと同一視するからだ

同一視するという、そのやり方は大体うまくいくが
時に大きな間違いに結びつく
というのも、それが典型的な魔術的思考だからである。

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大隋劫火洞然

僧問大隋。劫火洞然大千俱壞。未審
這箇壞不壞
隋云。壞
僧云。恁麼則隨他去也
隋云。隨他去

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明神下臨床認知科学研究会

10月15日の明神下臨床認知科学研究会予定

 目的1:認知科学の最近の発展を、主に邦訳文献を通じてフォローする
 目的2:臨床分野での最近のトピックスについて報告し、ディスカッションする

 日時:2009年10月15日(木曜) 18:30~20:30
 会場:明神下診療所 (参加費無料)

 内容:  (予定)
  18:30 ”SST経験交流ワークショップ”の報告
         「発達障害の治療とSST 」
        *奈良でのランチョンセミナーの様子をスライドで紹介する
  18:45 ディスカッション
  19:00 研究会の今後の進め方について
  19:15 マービン・ミンスキー「脳の探検」読書会第1回
         認知科学の発展とマービン・ミンスキーの業績と
         本書の概要  (担当・米田)
  19:45 ディスカッション
  20:15 まとめ
  20:30 研究会終了

 参考:  マービン・ミンスキー(Marvin Minsky, 1927年8月9日 - )は、アメリカ合衆国のコンピュータ科学者であり、認知科学者。専門は人工知能(AI)であり、MIT人工知能研究所の設立者の1人。初期の人工知能研究 を行い、AIや哲学に関する著書でも知られ、「人工知能の父」と呼ばれる。1970年代初期、MIT人工知能研究所でミンスキーとシーモア・パパートは、 「心の社会; The Society of Mind」理論と呼ばれるものを開発し始めた。理論は、どうしていわゆる知能が知的でない部分の相互作用から生まれるかを説明することを試みる。

『ミンスキー博士の脳の探検 ―常識・感情・自己とは―』
# 単行本: 488ページ # 出版社: 共立出版 (2009/7/10)
# ISBN-10: 4320122372   # ISBN-13: 978-4320122376

参加資格: 大学卒業程度以上の学力があり、医療機関・研究機関・福祉施設・その他の公的機関等に所属して、臨床または研究に従事していること。認知科学 の発達障害医学分野への応用に関心を持っていること。月に1回の定例研究会に参加して、日本語でレポートが発表できること。

連絡先:東京都千代田区外神田2-5-12 タカラビル2F 明神下診療所内
    ”明神下臨床認知科学研究会”宛  FAX:03-5207-6178

http://myoujinshita.jp/mccl/index.html

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