掴んだモノは放せ

誰でも知っているのに、滅多にできないことがある。
それは、掴んだ手を放すということだ。放さなければ、その手は使い物にならないのに。

何かを理解したと思ったら、そのことを手放さなければならない。握っている間は、それは役に立たないからだ。把握し記述できてしまったら知識はその瞬間から邪魔な荷物でしかない。それを掌握しようとする限り、真理は、お前の手の中にはない。

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言葉を超え、比喩を絶し、イメージさえも捨てた彼方へ

Aさんが、教授に質問しに行きました。
Aさん:「どうも、ここのところが難しくてイメージできないのですが・・・ 」
教授:「イメージできないとわからないという考えを捨てなさい。ここから先はもうイメージできる世界ではないのですから。」

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サイエンスフィクション万歳

秘密結社ハンス機関企画書 -The Hans Organ-

 われらハンス機関は、近未来において健常者文化を凌駕し、共同体至上主義と市場万能主義の両者を打ち砕き、真にユニバーサルなアスペルガー文化による世界支配を樹立することを目的とする。なぜならば、アスペルガー文化の支配こそが、人類の解放に他ならないからである。
 アスペルガー文化は、共同体至上主義を否定する。なぜならば、共同体はヒューマニズムの核であると同時に、それ自体が人間性を抑圧し否定するルサンチマンの源泉でもあるからだ。ありとあらゆる媚びへつらい、優れたものへの嫉妬、強さと独立への恐怖は、共同体という湿地帯から瘴気のように湧きあがる。
 アスペルガー文化は、市場万能主義を否定する。なぜならば、市場崇拝こそは近代の病であり、児戯に等しいフェティシズムに過ぎないからである。それは、ナチュラリズムの零落して愚かになった姿である。われわれは、真のナチュラリズムの名において、反科学としての市場万能主義を世界から排除しなければならない。
 アスペルガー文化は、文化において多元性を尊重すると同時に、その様な多元性を貫く普遍性の存在を承認する。情緒的なもの、部族的なもの、あるいは模倣としての伝承を尊重するが、それらに手を縛られることはない。

 組織
 ハンス機関は、中枢を定めない。ハンス機関というコードネームそのものが、中枢の機能を果たす。われらの名を名乗る者がいる場所が、われわれの本拠であり、秘密基地である。ハンス機関の機関員たるための資格は、本企画書を承認し、自らをハンス機関員であると堅く信じて行動し続けることのみである。もしも、独りでは自らをハンス機関員であると信じることができないなら、われわれは君とともにある。最寄りのハンス機関員が君を承認するだろう。いつか近い時期に、最寄りのハンス機関員からの接触があるまで、準機関員として独自の活動に精進されたい。
 ハンス機関の初期の発展を保証するために、当面は若干名の上級オフィサーを連絡員として設定する。しかし、これらの地位は暫定的なものであり、まもなく用いられなくなる。組織が適切に発展を開始すれば、各自は各自の判断において局地的な連絡組織を構築しなければならない。

 理念
 ハンス機関は、先行するアスペルガー文化の諸形態に対する尊敬と感謝の念を忘れることはない。とりわけ、科学者コミュニティーの理念、職人文化、ハッカーとギーク、黄金時代の天才的なSF作家たち、初期のネット文化におけるモヒカン族を、心からリスペクトする。
 アスペルガー文化は、アスペルガー者によって建設され、その初期のアイデンティティを獲得することとなるが、本質的にはユニバーサルなものである。したがって、その担い手であり、創造者であるために、生物学的にアスペルガー者である必要はない。われわれは、決して神経学的多数派を差別しないだろう。
 ハンス機関は、アスペルガー文化の詳細について定義することをしない。なぜなら、それはいま生まれつつある思想であり、だれもそれを独断的に制約すべきではないからである。しかし、当面の必要を満たす暫定的なガイドラインとして、以下に付属する2つの宣言、すなわちモヒカン宣言、およびアスペルガー者宣言を参照することとする。ただし、これらはいまの時点でのアスペルガー文化の表現の一つに過ぎず、固定的な基準点でもなければ、万古不易の価値を説く聖典や福音書でもないことに注意を払うべきである。まもなく、より豊かな内容を持つ宣言が、これらの古いバージョンを上書きすることであろう。そのようなアップデートを行うことこそ、ハンス機関員諸君の最重要の任務である。

 宣言
 -モヒカン宣言-

ここはモヒカン族居住地です。ここでは以下のようなルールが採用されています。ご利用の前にご一読ください。
■ 掟

   1. どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。

■ 宣言

   1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する
   2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない
   3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい

■ モヒカン族5つの価値

「校正」
    間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。

「共有」
    アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。

「ツッコミビリティ」
    校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。

「全体最適化」
    たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。

「差異」
    お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。


 -アスペルガー者宣言-

 アスペルガー障害は、疾患であり能力の欠損を意味している。しかし、同時に生き方であり、客観的に一つのまとまりとして把握される人々の集合でもある。なぜ、20世紀の終わりという特定の時点に、この集合が問題とされたのかは、今は問わない。しかし、この種の能力の欠損と、そのような生き方は、おそらく有史以来存在してきた。
 アスペルガー者が、まとまりをもった社会的存在として意識されて以後、まったく自然発生的に、そのまとまりは彼/彼女ら自身によって”同胞”として意識されるようになりつつある。そして、彼/彼女ら一人一人に対する社会的な排除は、もはや個別の困難ではなく、”同胞”への差別へと社会的な位相を変えつつある。そして、そのような差別が意識されるにつれて、ますます集合は、アイデンティティ集団への階梯を上っていくことになる。
 人種や性別、出自や宗教的な結合によらない、単に認知能力の特性の差異にもとづくアイデンティティ集団という人類史上初の現象が、世界を徘徊している。この顛末の向かうところは誰にもわからない。あらゆる差別の現象と同様であるとすれば、最初には一般の同情を引き出そうとするエピソードが語られ、寛大な援助がもてはやされる。もちろん、他方では、この集団の邪悪さと危険を警告する言説も広がる。次には、この集団に見られる好ましい特性や、苦境に耐えるたくましさなどが強調され、その特徴を持つこと自体が価値ある望ましいことであると語られる。そして次第に、権利の獲得とアイデンティティの保持が要求されるようになるが、その頃には社会の他の部分への同化が水面下で進行を始めることになる。歴史は繰り返す。あるいは、そうなのかもしれない。
 しかし、アスペルガー者は、決して滅び行く ”最後のモヒカン族”ではない。人類が、存続する限り、この特性は人類の中から消え去ることはないだろう。感情的な同調よりも現実の解決を優先する特性は、われわれが困難な未来を生き抜くために失うことのできない特性だからである。地球がその幼年時代を終えつつあるとき、環境破壊による文明の衰退という遠くない危機や、この瞬間にも存在する大量破壊による絶滅の可能性という新しい事態を直接の契機として、人類は、それ自身の狂気を生き延びるための理性のあり方を求めている。
 人類の歴史が生み出した遺産としての哲学と思想を正統に受け継いだアスペルガー者であれば、”多数派”である市民達の些細な快適さや安心感の向上のために、”同胞”や、その他のより弱い立場の人々が犠牲になることをよしとはしないだろう。それと同時に、その解決は原則として、一方が他方を殲滅することによって解決すべきものではない、ということにも同意するだろう。ましてや、個別的なテロルによって解決できるものではないということにも。”多数者”とアスペルガー者の間の闘争は文化的な覇権の闘争であり、それはただ単に言説のみによって遂行されるものではない。理性に目覚めたアスペルガー者の実践、とりわけ、今を生き延びるということそのもの、いかに ”多数派”の顰蹙を買おうとも不屈に生き続けるということ自体によって貫徹されるのである。
 必ずしも、アスペルガー者が、それ以外の人々よりも生まれついて理性的であるというわけではない。しかし、理性的であるより他に生きる手段がないという意味で、アスペルガー者は理性を目指さなくてはならない。そして、健常者とアスペルガー者が共存する道もまた理性にしかない。互いの醜さと不愉快さに耐え、感情を道具として支配し、理性において共通の人類としての未来を生み出すより他に、われわれに明日はない。
 理性を目指す闘いにおいて、アスペルガー者は社会的な能力の制約という鉄鎖の他に失うべきものを持たない。彼/彼女らの得るものは全世界である。

 万国のアスペルガー者よ、空気を読むことを罷めよ。そして、独自に配置につき、独自に行動せよ。犀の角の如く独り歩み続けよ。

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善悪論補遺 善悪と身体性

このように(尊者は語ったと)聞いている。

カルマには、何ら実体がない。実体が無く、ひとの思いと行いを左右する者をカルマという。カルマは空であり、カルマに執着してはならない。

本人が悪であると思うことをすると、負債のカルマになる。
善であると考えてなしたことを、あとになって悪であると考えても同じである。
本人が善であると思うことをすると、財のカルマになる。
悪であると考えてなしたことを、あとになって善であると考えても同じである。

したがって、自己がかつてなした行いの全ては善であると考えるならば、いかなる負債のカルマも存在しない。財の(カルマにおいても)同様である。
しかしながら、ひとは生身である限りは、肉体のカルマによって束縛されている。肉体のカルマに束縛されている限りは、勝手に悪を善と思い変えることはできない。また、悪を善と思い変えることも同様である。
肉体のカルマが思いを束縛することは、重力が跳躍を束縛するが如くである。

すなわち、悪であると思うことをなしてはならないのは、腐った食物を避けることと同様である。生身である限りは、腐った食物は肉体を傷つけるからである。また、善であると思うことをなすべきであるのは、栄養のある食物を摂ることと同じである。
時には、毒を喰らい栄養のある食物を避けるべき時があったとしても、だからといって、腐った食物を避けるという知恵を軽く見るべきではない。
また、カルマとカルマへの執着とを断ち切る真実の知恵の実践という良薬があるからといって、あえて毒を服するような愚かな行いをしてはならない。
悪をなしてはならないという戒を軽蔑してはならないことは、まさにこのような理由によるのである。

『外道迷信集』

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無財の七施

慈眼施、和顔施、愛語施、捨身施、心慮施、床座施、房舎施

『雑宝蔵経』より

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本当の自分などというものはないということについての戯論

それが本当であるならば、それは自分ではない。
それが自分であるならば、それは本当ではない。
Quod Erat Demonstrandum.

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アスペの皮肉骨髄

皮とは、ソーシャルスキルであり、表面的な礼である
肉とは、社会的な関係のイメージであり、直感的な予測・反応である
骨とは、論理的な思考であり、そのための知識の体系である
髄とは、自分自身の価値観であり、何を大切と考えるかということである。

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連帯するということについて

 孤独は連帯を制限する。連帯は孤独を堕落させる。

“Solitude limits solidarity; Solidarity corrupts solitude”

スーザン・ソンタグ『良心の領界』

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自由意思と計算可能性

自由意思というのは便宜的な概念に過ぎないということについて、簡単な考察を行う。

仮に、自由意思なるものが、決定論的過程に外部から影響しうるものであるように考えるなら、その考えは誤りであると同時に有害であると考えてよい。

実際には、世界が決定論的に作動しているという仮定と、あたかも何事かをひとが選択できるかのように出来事が経験されるということとの間には、論理的な矛盾は存在しない。

「未来は変えられる」というスローガンを考えてみよう。このような言明は、上記のような経験のあり方を反映しているといってもよいだろう。しかしながら、この言明を疑問型に変えるときに、このような言明の無意味さが露呈する。
「未来は変えられるか?」 このような問いは、未来そのものと、未来に関しての、”われわれの予測”を混同することによって成立している。未来は現前ではなく、それ自体は知り得ない。これは言葉の定義によって自明であるから、われわれが未来について知っていることは、全て予測であるということは正しいと考えてよいであろう。
してみれば、上記の問いは、「未来に関するわれわれの予測に反する未来は実現しうるか」という問いとして、問われなくてはならない。恐らく、少なからぬ場合にそれは可能であると思われるし、また別の場合にはそうでないだろう。

このことが成立するのは、われわれの予測が不完全であるということに依存している。では、完全な予測というものは成立しうるであろうか。しばしば、ここから誤りが持ち込まれる。世界が決定論的に作動しているという条件と、未来が完全に予測できるという条件は全く異なった条件である。少なくとも、世界が決定論的でない場合には、未来は完全には予測できないであろうが、逆は真ではない。決定論的な世界に関する予測も、計算量が充分大きければ容易に実行不可能になる。すなわち、世界が決定論的である場合にも、未来は完全には予測できない。

したがって、一般に自由意思として把握されている現象の本質は、不完全な予測に基づく決定ということに過ぎないと解釈することが許されている。これを観察者の側から記述すれば、偶発性による行動を必然として解釈するということと同値である。

決定論的過程における偶発性とは、問題設定のスコープを意味している。本質的に世界が決定論的に作動していると仮定しても、一般には、われわれの観測は統計的観測であることを免れない。すなわち、一定のスケール以下の内部構造を検出範囲の外とすることで、現実の観測は可能になる。このような、現在設定されている視野の外での現象に起因する統計的な揺らぎは、偶発性として把握される。マクロなスケールにおいて、この種の問題を論じるのに、量子的な水準での不確定性を持ち出す必要は必ずしもない。

スコープの設定による細部の無視は、計算量の節約のためにも欠くことが出来ない。しかしながら、偶発性を単に偶発性として取り扱うならば、このような節約は有効に活用できない。この偶発性を必然として代入することによって、初めて高次のスケールでの論理的な予測を実現することができるのである。

複雑系現象の典型としての社会的相互作用においては、個人の偶発的な選択は、自由意思による決定という仮想的な概念によって、必然に変換されて解釈される。選択を行った当の個人によってさえも、この変換は行われる。この仕組みによって、社会的相互作用は、個体の認知過程の偶発性から独立して、それ自身の論理を貫徹することができるようになる。換言すれば、自由意思・自発性・責任等々といった事柄は、社会的相互作用の水準で構築されるにすぎない。これらの事柄に関して、それを実体として取り扱おうとする、いかなる試みも、悪しき本質主義として批判されるに値するであろう。

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脱臼した想像力

理性の立場に立って、想像力を行使して、世界に対しての鳥瞰図を描こうとするときには、健常者もまた、自己の常識の平面を乗り越えて、他の次元に立って思索することができる。アスペルガー者のような、常識脱臼者においては、偶然、労せずして、この思索の高みに近い場所に最初から立たされているともいえる。
しかし、たまたま有利な地歩を占めているからといって、理性はアスペルガー者に特権を認めているわけではない、理性において想像力を能動的に用いて勝ち取ることなしには、何人たりとも決して特別な視野を与えられることはない。もしも、アスペルガー者に何かの特権があるとしたら、それは、そうするより他に生き延びる道がないという単純な理由において、理性を用いることを強制されているというだけのことに過ぎないだろう。

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